実績も施設もお金もなかったプロバスケットチームが、創設3年にして日本一を勝ち取った。本拠地は、「プロスポーツ不毛の地」と言われている栃木県宇都宮市。なぜ、こんな快挙を成し遂げることができたのだろうか。
マイナスからのスタートでも目標は「5年以内に日本一」
もはや革命である。大手企業の所属チームが居並ぶバスケットボールの日本リーグ(JBL)で、創設4年目のプロチーム、「リンク栃木ブレックス」が発展途上のスポーツビジネスを変えようとしている。
チーム名の「ブレックス」の由来が、「ブレイクスルー(現状打破)」と「レックス(ラテン語で王者)」。プロスポーツ“不毛の地”といわれた栃木県の宇都宮市を本拠としながら、創設3年目の昨季、早くも日本一に駆け上がった。しかも黒字化に成功し、チーム名の由来の通り、旧態依然としたチーム運営の概念をぶち壊した。
なぜ、成功したのか。リンク栃木代表で、運営会社の「リンクスポーツエンターテインメント」社長の山谷拓志は言う。“理”と“熱”を併せ持つ40歳。「ピンチをチャンスに変える発想の転換があったからです。そして結果の確率を上げるのは行動です」。
9月25日の土曜日。宇都宮市のブレックスアリーナ宇都宮の今季本拠地開幕戦を訪ねる。試合開始の2時間半ほど前から、ネクタイ姿の山谷が会場の一角に陣取った。高台の上のテーブルにつき、2台のパソコンを操作する。
音響や電光掲示板の映像を出す作業に追われているのだ。時にはレシーバーでスタッフに指示を出し、陣頭指揮に立つ。進行表を見て、とくにスポンサー絡みのことに神経をとぎらせる。
山谷が説明する。「原価削減です。外注より安上がりですから。僕からしたら、社長がコートサイドにふんぞり返っているなんて考えられない。じゃ、そのシートをお客さんに売れって」。
その山谷の熱は伝播する。観客席の公認サポーターズグループの連名代表、萩島正人がそっと教えてくれた。「彼が先頭に立ってやるから、つい応援したくなる」。地域密着、すなわちファンとの一体感も成功のカギなのだ。
ということで、リンク栃木の挑戦を振り返る。10月某日。宇都宮駅から車で約10分。交差点そばのビル2階の事務所である。約束時間の5分前、山谷が入り口付近の応接スペースに現れた。
伸びた背筋、目には活力が漲る。慶大時代にアメリカンフットボール選手として活躍し、リクルートで日本一に就いた。直後、チームがクラブ化され、会社の支援が打ち切られた。「独立するチャンスだと思った」という。
山谷は経営コンサルティング会社「リンクアンドモチベーション」に転職する。スポーツマネジメント業務に携わっていたところ、チーム運営会社の社長のオファーをもらった。2007年1月、代表に就任する。
「バスケも栃木もまったく縁もゆかりもなかった。でも何かの縁かなと思ったのです。周りに話を聞けば、“栃木ではうまくいかないぞ”と」
宇都宮市はざっと人口60万人。当時、栃木は関東一都六県で唯一、Jリーグがない県だった。しかもバスケットはメディア露出が低い。どうやって会場にファンを集めるのか。
いわばゼロ状態だった。いや、前年に日本リーグ入りを却下されたため、むしろマイナスからのスタートだった。山谷がため息をつく。「資本金が400万円。ぼろっちいビルの六畳一間のオフィス。常駐のスタッフが3人……」。
でも、目標を日本一においた。プロだからこそ結果にこだわる。
「そうでなければ、ビジネスの根幹をなさない。日本一を標榜しないということは、お客さんを裏切っていることなんです」
もっとも山谷のどこかに「やればできる」との自信があった。リクルートで弱小チームから日本一になった成功体験ゆえか。リンク栃木の説明書には「5年以内に日本一」と書いた。
「実績も施設もお金もない。コーチもいない。そういった中でお金を集め、選手にきてもらわないといけない。ウソ八百でも、日本一になるぐらい言わないといけなかったのです」
チームのスポンサー集めは困難を極めた。ベンチャー企業の商品セールスと同じである。アポとりの電話をかけても、「結構です」と断られる。会って資料を見せても、ケンモホロロに押し返された。でもあきらめなかった。
「僕の哲学として、未来のことって100%は絶対ないということなんです。不確実な中で“いけるかも”と判断してもらうしかない」。要は資料や言葉に説得力を持たせ、期待感として代価をもらうのだ。
「もし契約がとれたら、期待にどれだけこたえられるかがポイントとなります。期待を上回らないと、支援を継続してもらえない。約束するまでのプロセスよりも、約束したあとのほうが100倍大事なのです」
月に2~3度選手に宛てて書いた手紙
チームはリーグを脱退した大塚商会の1部の選手をとり込み、日本リーグ2部でいきなり優勝を遂げる。山谷は1年目の選手やスポンサーに感謝する。
「会社をつくるでも、何かを始めるでも、1回転目が大事だと思っています。何もない中でも口八丁手八丁でチームをつくる。一番有り難かったのは選手です。給料が払われるかどうかわからないチームにきてくれたのです」
世の中、金銭だけで動く人間ばかりでもない。チームの志を説けば、共感を覚えてくれる選手もいる。
「モチベーションマネジメントでいうと、人の働く意欲というのは、金銭的なもの、物欲的なものだけじゃない。僕らの強みはハード面にはまったくない。お金がなくても夢にかけてくれ、と言うしかなかったのです」
1年目の10人の選手年俸のトータルはざっと3000万~4000万円だという。安い。ある選手から、こう言われた。「この会社、大丈夫ですか」と。情報がない選手はどうしても不安となる。そこで山谷は月に2、3度、選手に手紙を書いた。
会社の細かな経営状況ほか、勝負哲学、体験など。情報の伝達、収集を大事にした、と山谷は言う。
「体でいうと情報は血液と一緒なのです。血液、コミュニケーションが滞ってしまうと、節々の末端が腐っていくわけです。それだけは、経営者はやっちゃいけない」
08年。日本リーグ2部を制した後、ヘッドコーチに秋田・能代工高の元監督の加藤三彦を招請し、日本代表の川村卓也らを補強する。さらに日本人初の米プロバスケットボール、NBA選手の田臥勇太を獲得する。
「最初は夢物語だった」と、山谷は打ち明ける。当時、田臥はNBA下部リーグのチームに所属していた。代理人に電話をかけたら、「断ります。もう二度と電話をしないで」と言われた。
施設は貧弱、他チームほどの高額な報酬も準備できない。でもアプローチを続ける。山谷は部下をアポなしで渡米させ、代理人の事務所前から電話を入れる。が、会ってくれなかった。営業の鉄則、資料だけをポストに残した。チームスタッフが再度渡米し、わずかな時間ではあったが代理人と会うことができた。
8月下旬、突然、代理人から電子メールがはいる。条件を提示する。2時間後に契約のファクスが届いた。田臥のサイン入り。「信じられなかった。英文字で“ユウタ・タブセ”とあった。これ“タブチ”じゃないの、間違っているんじゃないのって」。2日後、田臥を成田空港で出迎えた。
2年目。田臥効果もあって、観客数はどんどん伸びた。3年目の昨季は劇的な優勝を飾る。主催試合の平均観客数は2600人に達した。
宇都宮市を中心に小中学校でバスケットボール教室を開く。地域のバスケ・クリニックも実施する。お祭りなどの地域イベントに参加し、リンク栃木をPRする。これらの活動は3年半で600回を数えた。
「地域密着」。あえてスローガンで謳うことはない、と山谷は言う。
「地域密着は当たり前のことなのです。それを理念に掲げるのはほんと、恥ずかしい。理念より行動です。申し出は断らない。時間が空いていたら、どこかにいく。回数にこだわりました」
心の持ち方次第で何事も成し遂げられる
スポンサー集めでは、販促効果も訴えてきた。商品とのタイアップ企画を打ち出し、リンク栃木の選手や試合を販促ツールとして使ってもらう。例えば、明治製菓と組んだキャンペーンでは、同県内のスナック菓子の売り上げを八倍ほど伸ばした。栃木銀行の募金活動には田臥らのユニホームを提供し、イメージアップにひと役買った。
スポンサーは昨年より、10社ほど増え、95社となった。経営は順調で、一昨季の約3億3800万円から、昨季の売り上げが約4億6800万円に膨らんだ。約1600万円の黒字を計上した。
内訳を聞けば、山谷はパソコンをすぐ持ってきた。画面を示しながら、説明する。スポンサー収入が一昨季の約2億500万円から昨季が約2億2400万円に、チケット収入は約8900万円から約1億3300万円、グッズ関連が約2200万円から約5800万円に増えた。ポイントはスポンサー収入の金額が増えながら、比率が全体の60%から48%と落ちたことである。収入バランスがよくなりつつあるということだ。
ただし、今季から親会社のリンク社からの支援(昨季のスポンサー協賛が4900万円)が打ち切られる。完全な黒字企業となれるのか。今季の売り上げは5億3000万~4000万円を見込んでいる。
ただ、と山谷は言う。「チケット収入は限界がある。試合数とキャパ(観客数)の問題がありますから。だからブレックス以外の興行をやることで、チケット収入をあげていくしかない」。
そこでリンク栃木は今年、日本バスケットボール協会から興行権を買い取り、宇都宮市や福島県須賀川市で日本代表の試合を開催した。12月にはJBLオールスター戦を前橋市で主催する。興行権が300万円。「これですよ、これ」とオールスター戦のパンフレットを右人差指でとんとんとたたく。
「キャパが5000。収益性が見込めます。チケットとスポンサーで2000万円はいくんじゃないでしょうか」
さらに今季、下部育成チーム「TGI Dライズ」を発足させ、日本リーグ2部に参入させた。いわばプロ野球みたいな1、2軍方式で、日本では初の試みである。TGIは栃木、群馬、茨城の頭文字。年間運営費が約3000万円。選手はバスケスクールで週2回の講師を務めることになっている。
「選手の発掘、切磋琢磨のためです。また栃木県の南部を本拠とし、群馬、茨城にも出張っていく。北関東に商圏を広げていくという発想なんです」
バスケット界は激動期を迎える。日本リーグとbjリーグからチームを募り、13年を目標に新リーグの設立を目指すことになっている。市場形態も変わる。「チームを持つ会社が、プロの球団としてちゃんと収益をあげて運営する形は外せない」と山谷は言う。
リンク栃木の中期的なビジョンが「BREX NEXT 5」である。今後5年間で達成すべき目標として、(1)新トッププロリーグ(13年スタート予定)の初代王者、(2)日本人NBA選手輩出、(3)年間売り上げ6億円、(4)平均観客動員3000人、(5)地域密着活動累計1000回達成、の5つを掲げる。
モットーは「すべては心の持ち方次第」。夢は?と聞けば、目が別もののような光を帯びた。
「チームとしてきちんとその地域に定着して、強くて、収益的に安定できるチームをつくること。スポーツを見る価値をもっともっと高めたい。でも究極の夢としてスポーツの現場の監督をしたい。アメフトの弱小チームのヘッドコーチなどいいですねえ」
目下、リンク栃木は連覇をかけたシーズンを戦っている。「もう一度、ゼロからのスタート」と言い切る。古い体質のバスケ界を変えるためには、勝ち続けないといけない。
「新しいことをやるうえでの一番の証明力は勝つことです。今年最下位だと説得力がなくなってしまいます」
延々2時間。濃密なインタビューが終わる。応接スペースの隣を通り、営業の若手スタッフが事務所から出ていく。山谷が笑顔で大声を飛ばす。
「いってらっしゃ~い」
いざ上質のスポーツ・エンターテインメントの確立へ。リンク栃木の挑戦が続く。(文中敬称略)
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もはや革命である。大手企業の所属チームが居並ぶバスケットボールの日本リーグ(JBL)で、創設4年目のプロチーム、「リンク栃木ブレックス」が発展途上のスポーツビジネスを変えようとしている。
チーム名の「ブレックス」の由来が、「ブレイクスルー(現状打破)」と「レックス(ラテン語で王者)」。プロスポーツ“不毛の地”といわれた栃木県の宇都宮市を本拠としながら、創設3年目の昨季、早くも日本一に駆け上がった。しかも黒字化に成功し、チーム名の由来の通り、旧態依然としたチーム運営の概念をぶち壊した。
なぜ、成功したのか。リンク栃木代表で、運営会社の「リンクスポーツエンターテインメント」社長の山谷拓志は言う。“理”と“熱”を併せ持つ40歳。「ピンチをチャンスに変える発想の転換があったからです。そして結果の確率を上げるのは行動です」。
9月25日の土曜日。宇都宮市のブレックスアリーナ宇都宮の今季本拠地開幕戦を訪ねる。試合開始の2時間半ほど前から、ネクタイ姿の山谷が会場の一角に陣取った。高台の上のテーブルにつき、2台のパソコンを操作する。
音響や電光掲示板の映像を出す作業に追われているのだ。時にはレシーバーでスタッフに指示を出し、陣頭指揮に立つ。進行表を見て、とくにスポンサー絡みのことに神経をとぎらせる。
山谷が説明する。「原価削減です。外注より安上がりですから。僕からしたら、社長がコートサイドにふんぞり返っているなんて考えられない。じゃ、そのシートをお客さんに売れって」。
その山谷の熱は伝播する。観客席の公認サポーターズグループの連名代表、萩島正人がそっと教えてくれた。「彼が先頭に立ってやるから、つい応援したくなる」。地域密着、すなわちファンとの一体感も成功のカギなのだ。
ということで、リンク栃木の挑戦を振り返る。10月某日。宇都宮駅から車で約10分。交差点そばのビル2階の事務所である。約束時間の5分前、山谷が入り口付近の応接スペースに現れた。
伸びた背筋、目には活力が漲る。慶大時代にアメリカンフットボール選手として活躍し、リクルートで日本一に就いた。直後、チームがクラブ化され、会社の支援が打ち切られた。「独立するチャンスだと思った」という。
山谷は経営コンサルティング会社「リンクアンドモチベーション」に転職する。スポーツマネジメント業務に携わっていたところ、チーム運営会社の社長のオファーをもらった。2007年1月、代表に就任する。
「バスケも栃木もまったく縁もゆかりもなかった。でも何かの縁かなと思ったのです。周りに話を聞けば、“栃木ではうまくいかないぞ”と」
宇都宮市はざっと人口60万人。当時、栃木は関東一都六県で唯一、Jリーグがない県だった。しかもバスケットはメディア露出が低い。どうやって会場にファンを集めるのか。
いわばゼロ状態だった。いや、前年に日本リーグ入りを却下されたため、むしろマイナスからのスタートだった。山谷がため息をつく。「資本金が400万円。ぼろっちいビルの六畳一間のオフィス。常駐のスタッフが3人……」。
でも、目標を日本一においた。プロだからこそ結果にこだわる。
「そうでなければ、ビジネスの根幹をなさない。日本一を標榜しないということは、お客さんを裏切っていることなんです」
もっとも山谷のどこかに「やればできる」との自信があった。リクルートで弱小チームから日本一になった成功体験ゆえか。リンク栃木の説明書には「5年以内に日本一」と書いた。
「実績も施設もお金もない。コーチもいない。そういった中でお金を集め、選手にきてもらわないといけない。ウソ八百でも、日本一になるぐらい言わないといけなかったのです」
チームのスポンサー集めは困難を極めた。ベンチャー企業の商品セールスと同じである。アポとりの電話をかけても、「結構です」と断られる。会って資料を見せても、ケンモホロロに押し返された。でもあきらめなかった。
「僕の哲学として、未来のことって100%は絶対ないということなんです。不確実な中で“いけるかも”と判断してもらうしかない」。要は資料や言葉に説得力を持たせ、期待感として代価をもらうのだ。
「もし契約がとれたら、期待にどれだけこたえられるかがポイントとなります。期待を上回らないと、支援を継続してもらえない。約束するまでのプロセスよりも、約束したあとのほうが100倍大事なのです」
月に2~3度選手に宛てて書いた手紙
チームはリーグを脱退した大塚商会の1部の選手をとり込み、日本リーグ2部でいきなり優勝を遂げる。山谷は1年目の選手やスポンサーに感謝する。
「会社をつくるでも、何かを始めるでも、1回転目が大事だと思っています。何もない中でも口八丁手八丁でチームをつくる。一番有り難かったのは選手です。給料が払われるかどうかわからないチームにきてくれたのです」
世の中、金銭だけで動く人間ばかりでもない。チームの志を説けば、共感を覚えてくれる選手もいる。
「モチベーションマネジメントでいうと、人の働く意欲というのは、金銭的なもの、物欲的なものだけじゃない。僕らの強みはハード面にはまったくない。お金がなくても夢にかけてくれ、と言うしかなかったのです」
1年目の10人の選手年俸のトータルはざっと3000万~4000万円だという。安い。ある選手から、こう言われた。「この会社、大丈夫ですか」と。情報がない選手はどうしても不安となる。そこで山谷は月に2、3度、選手に手紙を書いた。
会社の細かな経営状況ほか、勝負哲学、体験など。情報の伝達、収集を大事にした、と山谷は言う。
「体でいうと情報は血液と一緒なのです。血液、コミュニケーションが滞ってしまうと、節々の末端が腐っていくわけです。それだけは、経営者はやっちゃいけない」
08年。日本リーグ2部を制した後、ヘッドコーチに秋田・能代工高の元監督の加藤三彦を招請し、日本代表の川村卓也らを補強する。さらに日本人初の米プロバスケットボール、NBA選手の田臥勇太を獲得する。
「最初は夢物語だった」と、山谷は打ち明ける。当時、田臥はNBA下部リーグのチームに所属していた。代理人に電話をかけたら、「断ります。もう二度と電話をしないで」と言われた。
施設は貧弱、他チームほどの高額な報酬も準備できない。でもアプローチを続ける。山谷は部下をアポなしで渡米させ、代理人の事務所前から電話を入れる。が、会ってくれなかった。営業の鉄則、資料だけをポストに残した。チームスタッフが再度渡米し、わずかな時間ではあったが代理人と会うことができた。
8月下旬、突然、代理人から電子メールがはいる。条件を提示する。2時間後に契約のファクスが届いた。田臥のサイン入り。「信じられなかった。英文字で“ユウタ・タブセ”とあった。これ“タブチ”じゃないの、間違っているんじゃないのって」。2日後、田臥を成田空港で出迎えた。
2年目。田臥効果もあって、観客数はどんどん伸びた。3年目の昨季は劇的な優勝を飾る。主催試合の平均観客数は2600人に達した。
宇都宮市を中心に小中学校でバスケットボール教室を開く。地域のバスケ・クリニックも実施する。お祭りなどの地域イベントに参加し、リンク栃木をPRする。これらの活動は3年半で600回を数えた。
「地域密着」。あえてスローガンで謳うことはない、と山谷は言う。
「地域密着は当たり前のことなのです。それを理念に掲げるのはほんと、恥ずかしい。理念より行動です。申し出は断らない。時間が空いていたら、どこかにいく。回数にこだわりました」
心の持ち方次第で何事も成し遂げられる
スポンサー集めでは、販促効果も訴えてきた。商品とのタイアップ企画を打ち出し、リンク栃木の選手や試合を販促ツールとして使ってもらう。例えば、明治製菓と組んだキャンペーンでは、同県内のスナック菓子の売り上げを八倍ほど伸ばした。栃木銀行の募金活動には田臥らのユニホームを提供し、イメージアップにひと役買った。
スポンサーは昨年より、10社ほど増え、95社となった。経営は順調で、一昨季の約3億3800万円から、昨季の売り上げが約4億6800万円に膨らんだ。約1600万円の黒字を計上した。
内訳を聞けば、山谷はパソコンをすぐ持ってきた。画面を示しながら、説明する。スポンサー収入が一昨季の約2億500万円から昨季が約2億2400万円に、チケット収入は約8900万円から約1億3300万円、グッズ関連が約2200万円から約5800万円に増えた。ポイントはスポンサー収入の金額が増えながら、比率が全体の60%から48%と落ちたことである。収入バランスがよくなりつつあるということだ。
ただし、今季から親会社のリンク社からの支援(昨季のスポンサー協賛が4900万円)が打ち切られる。完全な黒字企業となれるのか。今季の売り上げは5億3000万~4000万円を見込んでいる。
ただ、と山谷は言う。「チケット収入は限界がある。試合数とキャパ(観客数)の問題がありますから。だからブレックス以外の興行をやることで、チケット収入をあげていくしかない」。
そこでリンク栃木は今年、日本バスケットボール協会から興行権を買い取り、宇都宮市や福島県須賀川市で日本代表の試合を開催した。12月にはJBLオールスター戦を前橋市で主催する。興行権が300万円。「これですよ、これ」とオールスター戦のパンフレットを右人差指でとんとんとたたく。
「キャパが5000。収益性が見込めます。チケットとスポンサーで2000万円はいくんじゃないでしょうか」
さらに今季、下部育成チーム「TGI Dライズ」を発足させ、日本リーグ2部に参入させた。いわばプロ野球みたいな1、2軍方式で、日本では初の試みである。TGIは栃木、群馬、茨城の頭文字。年間運営費が約3000万円。選手はバスケスクールで週2回の講師を務めることになっている。
「選手の発掘、切磋琢磨のためです。また栃木県の南部を本拠とし、群馬、茨城にも出張っていく。北関東に商圏を広げていくという発想なんです」
バスケット界は激動期を迎える。日本リーグとbjリーグからチームを募り、13年を目標に新リーグの設立を目指すことになっている。市場形態も変わる。「チームを持つ会社が、プロの球団としてちゃんと収益をあげて運営する形は外せない」と山谷は言う。
リンク栃木の中期的なビジョンが「BREX NEXT 5」である。今後5年間で達成すべき目標として、(1)新トッププロリーグ(13年スタート予定)の初代王者、(2)日本人NBA選手輩出、(3)年間売り上げ6億円、(4)平均観客動員3000人、(5)地域密着活動累計1000回達成、の5つを掲げる。
モットーは「すべては心の持ち方次第」。夢は?と聞けば、目が別もののような光を帯びた。
「チームとしてきちんとその地域に定着して、強くて、収益的に安定できるチームをつくること。スポーツを見る価値をもっともっと高めたい。でも究極の夢としてスポーツの現場の監督をしたい。アメフトの弱小チームのヘッドコーチなどいいですねえ」
目下、リンク栃木は連覇をかけたシーズンを戦っている。「もう一度、ゼロからのスタート」と言い切る。古い体質のバスケ界を変えるためには、勝ち続けないといけない。
「新しいことをやるうえでの一番の証明力は勝つことです。今年最下位だと説得力がなくなってしまいます」
延々2時間。濃密なインタビューが終わる。応接スペースの隣を通り、営業の若手スタッフが事務所から出ていく。山谷が笑顔で大声を飛ばす。
「いってらっしゃ~い」
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